明日待たるるその宝船‥源吾と其角、両国橋の別れ

明日待たるるその宝船‥源吾と其角、両国橋の別れ

元禄15年12月13日(西暦1703年)はすす払いの日。大高源吾は煤竹を売って、吉良の様子を探っている。

雪の降る中、ボロ半纏にボロの股引の姿で両国橋を渡っていると、「子葉先生ではございませんか」と声を掛ける者がいる。茅場町の宗匠とも呼ばれる宝井其角(たからいきかく)である。

其角は懐中から紙と矢立を取り出し、サラサラと「年の瀬や水の流れと人の身は」と認める。大高源吾はその下に「明日待たるるその宝船」と付ける。其角は大高源吾のボロボロの服装から身の上を察し、自分の着ていた羽織を脱いで彼に着せる。こうして2人は別れる。

「年の瀬や水の流れと人の身は」 宝井其角

「明日待たるるその宝船」 大高源吾

 

立派なお武家様であった大高源吾があれほど貧しい身なりをしている。「明日待たるるその宝船」とは、了見まで賤しくなってしまったのかと其角は思う。そこで其角ははっと気づいた。あの羽織は松浦様から貰った物だ。人様から頂いた物を黙って他の者に渡してしまっては申し訳ない。

朝になり(元禄15年12月14日)、家を訪ねて来た男から、今日は納めの俳句の会が土屋様の屋敷であると聞かされる。土屋様のお屋敷は吉良の屋敷の隣りだ。「それだ」と思う其角。「明日待たるるその宝船」の真意が分かった。其角は土屋の屋敷に向かう。ここでは江戸の名高い俳人が揃うなか俳句の会が催される。

雪が降っているということで其角は屋敷に泊まる。夜中、門を叩く音がする。隣の吉良邸に討ち入ることを告げに来た大高源吾らであった。「子葉宗匠!」と其角は叫び、このような立派な志があったことを知らなかったと昨日の無礼を詫びる。「我が雪と思へば軽し笠の上」と其角は詠んだ。

「我が雪と思へば軽し笠の上」 宝井其角

この同じ刻限、松浦の屋敷で壱岐守は、赤穂義士の鳴らす山鹿流の陣太鼓の音に耳を傾けながら、浪士が本懐を遂げることを祈るのであった。

なぜ、討ち入りの日が12月14日に決まったのか?

討ち入りの日が12月14日に決まったのは、吉良上野介が14日に年忘れの茶会を催すという情報を得たからでした。その情報を得たのは横川勘平で、吉良邸に出入りする寺僧より、茶会の招待状の代筆を頼まれたことで知ったといいます。14日は亡君・浅野内匠頭の月命日でもありました。

茶会の日取りについては、茶人の山田宗徧に弟子入りしていた大高源五が情報をつかんだイメージがありますが、それは14日ではなく、6日の茶会の方でした。6日の茶会は、将軍綱吉の柳沢吉保邸訪問の日と重なったため延期になってしまいます。

 

 

両国橋の名前の由来

両国橋は明暦(めいれき)の大火(1657)後架橋され、左岸の本所(ほんじょ)がかつて下総(しもうさ)国に含まれたため、武蔵(むさし)・下総両国を結んだことが橋名となり、地名はこの橋に由来する。 見世物・芝居小屋、茶店などでにぎわった両国広小路は、両国橋の西詰で、現在の中央区東日本橋北部にあたる。

 

 

富嶽三十六景 第16弾 御厨川岸より両國橋夕陽見(葛飾北斎)


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富嶽三十六景 第16弾 御厨川岸より両國橋夕陽見(おんまやがしよりりょうごくばしゆうひみ)(葛飾北斎)

 

まとめと関連情報

年の瀬や水の流れと人の身は‥ 大高源吾(辞世の句)
元禄15年は西暦1703年です
大石内蔵助良雄 辞世の句
我が物と思えば軽し笠の雪 其角 ことわざ

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