東風吹かばにほいおこせよ梅の花‥意味、現代語訳や内容

東風吹かばにほいおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花‥訳(意味)、内容など

誰もが一度は聞いたことがある、大鏡や拾遺和歌集などに収録されている、菅原道真の和歌です。拾遺和歌集の詞書には、「ながされ侍りける時、家のむめの花を見侍りて 贈太政大臣」とあり、つまり、「太宰府へと左遷されなさったとき、家の梅の花をご覧になって詠まれた歌」と記載されています。

訳としては、次のようになります。なお、東風(こち)は「春に東から吹く風」という意味で、京都から太宰府に吹く風は、菅原道真にとっては東から吹く風を意味します。

(春がきて)東の風が吹いたならば、私のもとまで(大宰府)その香りを届けておくれ、わが家の梅の花よ。主人がいないからといって、春を忘れてくれるなよ。

「春な忘れそ」と「春を忘るな」

大鏡と拾遺和歌集に収録されていますが、最後の箇所が少し違っています。どちらが正解なのかとの議論もありますが、どちらも間違いではないということでしょう‥

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ(大鏡)

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな(拾遺和歌集)

 

菅原道真と百人一首

「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花‥」はこれだけ有名な和歌にもかかわらず、百人一首には収録されていません。なお、菅原道真の死後すぐに編集された「古今和歌集」にも、百人一首に採用された「この度(たび)は幣(ぬさ)もとりあえず手向山(たむぬけやま)紅葉(もみじ)の錦(にしき)神(かみ)のまにまに」が載せられています。

 

なぜ、菅原道真は大宰府に左遷されたのか?

菅原道真は学者の身分でありながら、宇多天皇、その後を継いだ醍醐天皇に重用されて、右大臣にまで昇り詰めたのですが、そのことを苦々しく思っていた左大臣藤原時平らの策略により、菅原道真は太宰府へと左遷されることとなりました。最大の後ろ盾であった宇多天皇の退位が一番の要因を思われます。

菅原道真(すがわらの みちざね)について

(承和12年6月25日〈845年8月1日〉- 延喜3年2月25日〈903年3月26日〉)
平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝(醍醐天皇は宇多天皇の息子)では右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。

 

通りゃんせ♪の歌詞にある天神様は菅原道真

歌詞の中の「天神さま」とは、学問の神様といわれた菅原道真(845~903年)のことで、江戸時代には、寺子屋で盛んに信仰され、道真のように学問に励むことを誓ったそうです。「天神さま」は子供たちにとってとても親しみ深い神様でした。

作詞 : わらべうた
作曲 : わらべうた

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ

続きはこちらから

 

太宰府天満宮



月岡芳年の連作「月百姿」十六番目、月耀如晴雪‥菅原道真

月岡芳年の連作「月百姿」の、十六番目の作品です。
梅に関わる伝説が多い菅原道真には、父の菅原是善(これよし)が梅の樹に忽然と現れた童子をわが子として育てたという伝説もあります。この絵は、梅の花が美しい月夜に父に詩を詠むように言われた11歳の道真がさらさらと筆をすすめ、初めて詩を詠んだ光景を描いています。

「月耀如晴雪(げつようせいせつのごとく) 梅花似照星(ばいかしょうせいににたり) 可憐金鏡転(あわれむべしきんきょうてんじて) 庭上玉房馨(ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)」

 

まとめと関連情報


通りゃんせ♪歌詞
東風吹かばにほいおこせよ梅の花‥意味、現代語訳や内容
名月や畳の上に松の影 其角

コメント