待宵や明日は二見へ道者われ 其角

待宵や明日は二見へ道者われ 其角

其角発句集を参照されたし。

まつよいや
あすはふたみへ
どうしゃわれ

待宵と道者について

待宵とは、翌日の十五夜の月を待つ宵の意。陰暦8月14日の夜。小望月 (こもちづき) 。

道者=連れ立っていたお伊勢参り参詣の道者たちは帰国していく、われは明日は二見ヶ浦の名月を見に、風雅の道者となろう。松尾芭蕉の「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」に句兄弟として作ったのかと思われる。との解説です。

道者の意味について

道者の意味ついては、いろいろありますが、この其角の句では、道連れ、同伴の者の意となります。

④ (「同者」「同社」とも書く) 社寺・霊場へ参詣・巡拝する旅人。多く、連れ立ってでかけたことから、道連れ、同伴の者の意ともなった。遍路。巡礼。回国。道衆。

 

 

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) – 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日)[1])は、江戸時代前期の俳諧師。本名は竹下 侃憲たけした ただのり。別号は「螺舎らしゃ」「狂雷堂きょうらいだう」「晋子しんし」「宝普斎ほうしんさい」など。

蕉門十哲の一人に数えられる。『去来抄』に収められた逸話は、芭蕉の其角に対する評価をよく物語っている。

切られたるゆめはまことかのみのあと 其角

去來曰く「其角は誠に作者にて侍る。わずかに、のみの喰ひつきたる事、たれかかくは謂ひつくさん」。先師曰く「しかり。かれは定家の卿也。さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る、ときこへし評に似たり」。

(現代語訳)「其角は本当に巧みですね。ちょっと、ノミが喰いついただけの事を、誰がここまで言い尽くせるでしょう」と向井去来がいうと、芭蕉が応えて「確かに。彼は藤原定家卿だよ。ちょっとしたことを、大げさに表現する(=修辞が巧みである)と評されたのに似ているね」と言った。

堀切実は、其角が閑寂と伊達を特徴とする俳風から、奇警な見立てや謎めいた句作りを喜ぶ洒落風へと変遷したと指摘し「はじめ師の「閑寂」にも大いに共鳴していた其角であったが、師の没後は、迷うことなく「伊達」にして「寛闊」な境地に遊んだのであった」と評している[8]。

江戸川や月待宵の芒船 一茶

江戸川や月待宵の芒船(すすきぶね)

 

待宵の芒舟-湯屋のお助け人(4)千野 隆司

 

五十両の借用証文を残して、仏具商川角屋の主人が失踪した。女房の頼みで、捜索に奔走する源兵衛と三樹之助だったが、そんなとき、九年ぶりに竹造が江戸に舞い戻ってきた。竹造はかつてお久と相思相愛の仲の版木職人だったが、いまでは荒んだ雰囲気を漂わせていた…。

著者:千野 隆司について

1951年東京生まれ。國學院大學文学部卒。出版社勤務を経て中学校教諭となる。1990年「夜の道行」で第12回小説推理新人賞を受賞。捕物帖での新人賞受賞は極めて困難と言われている中での快挙だった。主な著書に『浜町河岸夕暮れ』『永代橋、陽炎立つ』『札差市三郎の女房』などがある。

千野隆司の「時代小説の向こう側」 : 待宵の芒舟 (livedoor.jp)

 

まとめと関連情報

 

 


⇒ 12月14日は忠臣蔵・四十七士討ち入りの日‥
⇒ 12月14日忠臣蔵・討ち入り後の泉岳寺までのルートについて
⇒ 夏の月蚊を疵(きず)にして五百両 其角
⇒ 我が物と思えば軽し笠の雪 其角 ことわざ
⇒ 其角研究 (kikaku.boo.jp)

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