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心しらぬ人は何とも言はばいへ‥明智光秀(辞世の句)

心しらぬ人は何とも言はばいへ‥明智光秀(辞世の句)

明智光秀の辞世の句は以下の2つあるといわれています。

 

心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ

順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元

 

 

 

明智 光秀(あけち みつひで)とは

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。美濃国の明智氏の支流の人物。一般に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。

最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となり、越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。

元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。

天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、天下を取った(三日天下)。

その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされる(山崎の戦い)。

「時は今、雨が下しる五月かな」謀反前の連歌会発句

明智光秀は、羽柴[豊臣]秀吉(はしば[とよとみ]ひでよし)への援軍のため、中国出兵を命じられた後に、愛宕山で連歌の会を催しました。『愛宕百韻(あたごひゃくいん)』や『明智光秀張行百韻(あけちみつひでちょうこうひゃくいん)』などと呼ばれ、いくつかの写本が伝存しています。

「時は今、雨が下しる五月かな」‥明智光秀
「水上まさる、庭の松山」‥西ノ坊行祐(にしのぼうぎょうゆう)
「花落つる、流れの末をせきとめて」‥里村紹巴(さとむらじょうは)
「風に霞を、吹き、おくる暮れ」‥大善院宥源(だいぜんいんゆうげん)

※『天正十二年五月廿四日於愛宕山明智光秀興行連歌』
里村紹巴 ほか撰 (早稲田大学図書館所蔵)

「時は今、雨が下しる五月かな」‥明智光秀

「時は今」の「とき」は「土岐」とも解釈できます。 光秀は「土岐氏の一族」と名乗っていました。 「天(雨)が下知る」の「天が下」はそのまま「天下」のこと。 「知る」は「支配する」という意味の言葉です。

「時は今 天が下知る 五月かな」の「時」をそのまま読めば、 「時は今、(信長公が)天下を支配する、そんな五月かな」です。 しかし、「時」を「土岐」の意味と考えると、 「土岐氏が今、天下を支配する、そんな五月かな」です。 これは土岐氏の光秀が「天下を盗る」と言う宣言にもとれます。

 

 

花ぞ時元日草やひらくらん 井原西鶴



まとめと関連情報

 

 

 

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