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浮世の月見過ごしにけり末二年‥井原西鶴 辞世の句

浮世の月見過ごしにけり末二年(辞世の句)

「辞世、人間五十年の究り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや」と詞書あり。

浮世の月 見過ごしにけり 末二年 (井原西鶴)
(うきよのつき みすごしにけり すえにねん)

●意味

人生50年といわれているが、私はもう52年も生きてきたので、
おしまいの2年間だけ浮世の月を余分に見たことになる。

※浮世=楽しい世。
※末二年=再晩年の二年間。

大晦日定なき世の定かな・井原西鶴の意味とは

●意味

混沌としたこの世にもはや守るべき定(さだめ)
というものはなくなったが、不思議と大晦日だけは
みなが律儀に新年を迎えようと定めにしたがっている
(引用:自在コラムさん)

井原西鶴とは

寛永19年(1642年)頃、大坂・難波に生れ、15歳頃から俳諧師を志し談林派を代表する俳諧師として名をなした。一昼夜の間に発句をつくる数を競う矢数俳諧の創始を誇り、またそれを得意とした(最高記録は23,500句)。

その奇矯な句風から阿蘭陀流(オランダりゅう)と腐される。天和2年(1682年)に
『好色一代男』を出版し好評を得、その後様々なジャンルの作品を出版。

従来の仮名草子とは一線を画する物として、現在では以後の作品を浮世草子と区別している。
元禄6年8月10日(1693年9月9日)没。松の廊下刃傷事件は元禄14年(1701年)。

代表作は『一代男』の他に『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』など。

 

大晦日定なき世の定かな

浮世の月見過しにけり末二年

柿食えば鐘が‥(正岡子規)意味とは

柿食えば鐘が‥(正岡子規)意味とは

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

明治28年10月、正岡子規は松山から
上京する途中に奈良・法隆寺で詠んだ句です。

旅先で好物だった柿を食べていると、
法隆寺の時を告げる鐘の音が聞こえてきた

子規が法隆寺を訪れ、方々を見た後、
法隆寺境内の茶店で休み、出された御所柿を
食べていたら、すぐ近くの西円堂の鐘楼から
時を告げる鐘の音が響き始め、この鐘の音は
法隆寺の裏山にこだまし、微妙なうねりを
伴って斑鳩の里へ伝わっていったというものです。

正岡子規作品集64作品収録・電子書籍

正岡子規作品集64作品収録

俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など
多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に
多大な影響を及ぼした正岡子規の代表作
『歌よみに与ふる書』含む64作品収録。
99円(税込)

あきまろに答ふ (新字旧仮名)
曙覧の歌 (新字新仮名)
犬 (新字旧仮名)
犬 (新字新仮名)
歌よみに与ふる書 (旧字旧仮名)
歌よみに与ふる書 (新字新仮名)
歌よみに与ふる書 (新字旧仮名)
画 (新字新仮名)
かけはしの記 (新字旧仮名)
鎌倉一見の記 (旧字旧仮名)
寒山落木 巻一 (旧字旧仮名)

正岡 子規(まさおか しき)とは

(1867年10月14日(慶応3年9月17日) –
1902年(明治35年)9月19日)

俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。
幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに
升(のぼる)と改めた。

俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など
多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に
多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の
一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

天災は忘れた頃にやってくるとは(寺田寅彦)

天災は忘れた頃にやってくるとは(寺田寅彦)

自然災害はその被害を忘れたときに
再び起こるものだという戒め。

「天災は忘れられたる頃来る」、
「天災は忘れた頃来る」、
「天災は忘れられた頃に来る」

などとも記述される。

科学者で随筆家の寺田寅彦の言葉とされることが、
寅彦が発表した文章の中にはこれらの言葉は
見つかっていないとか。

地震雑感/津浪と人間(中公文庫)寺田寅彦

地震雑感/津浪と人間(中公文庫)寺田寅彦

「天災は忘れた頃にやって来る」の名言で
有名な寺田寅彦の、地震と津浪に
関連する文章を集めた。
地震国難の地にあって真の国防とは
何かを訴える色あせぬ警告の書。
寺田寅彦が漱石門下の友人小宮豊隆に送った
「震災絵はがき」のカラー図版十葉を収める。

寺田寅彦(テラダトラヒコ)

1878年(明治11)、東京に生まれる。
物理学者、随筆家。父は高知県の士族出身。
五高在校中、夏目漱石に学ぶ。1903年(明治36)、
東京大学物理学科卒業。東大助教授を経て、
東大教授。地震研究所、航空研究所、
理化学研究所などにも籍をおいた。科学者の視点から、
日常身近の現象をとらえた独特の随筆を多く書いた。
筆名に吉村冬彦など。1935年(昭和10)、逝去。

芭蕉の有名な俳句(秋)隣は何を‥

芭蕉の有名な俳句(秋)を
調べてみました。

秋深き 隣は何を する人ぞ
この道や 行くひとなし 秋の暮れ
枯れ枝に 鳥のとまりけり 秋の暮れ

松尾 芭蕉は元禄7年(1694年)に永眠

松尾 芭蕉は元禄7年(1694年)に永眠

松尾 芭蕉(寛永21年(1644年) –
元禄7年10月12日(1694年11月28日))

江戸時代前期の俳諧師。
三重県上野市(現在の伊賀市)出身。幼名は金作。
俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、
芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。

俳諧(連句)の芸術的完成者であり、
蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、
後世では俳聖として世界的にも知られる、
日本史上最高の俳諧師の一人である。

芭蕉自身は発句(俳句)より
俳諧(連句)を好んだ。

芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、
元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、
北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した
紀行文『おくのほそ道』が特に有名。

芭蕉が永眠した元禄7年から
7年後の元禄14年3月14日 (旧暦) (1701年4月21日)、
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、
江戸城松之大廊下で、吉良上野介吉央
(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかった
赤穂事件が発生。

元禄15年12月14日 (旧暦) (1702年1月30日)、
吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった
(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに
参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。
事に端を発する。斬りかかった理由は、
何らかの「遺恨」が原因との事だが
詳細は不明である)。

奥の細道 青空文庫

一 冒頭

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也
`舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて
老をむかふる物は日々旅にして旅を栖とす
`古人も多く旅に死せるあり
`予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて
漂白の思ひやまず海浜にさすらへ
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて
やや年も暮春立る霞の空に白川の関こえんと
そぞろ神の物につきて心をくるはせ道祖神の
まねきにあひて取もの手につかず
もも引の破をつづり笠の緒付かへて三里に
灸すうるより松島の月先心にかかりて住る方は
人に譲り杉風が別墅に移るに
`草の戸も住替る代ぞひなの家
`面八句を庵の柱に懸置

二 旅立

`弥生も末の七日明ぼのの空朧々として
月は在明にて光をさまれる物から不二の
峰幽にみえて上野谷中の花の梢
`又いつかは `と心ぼそし
`むつましきかぎりは宵よりつどひて
舟に乗て送る
`千じゆと云所にて船をあがれば
前途三千里のおもひ胸にふさがりて
幻のちまたに離別の泪をそそく

`行春や鳥啼魚の目は泪

`是を矢立の初として行道なほすすまず
`人々は途中に立ならびて
`後かげのみゆる迄は `と見送なるべし

朋有り遠方より来たる・論語

よく耳にする論語の一節です。
漢詩だと思っている人も多いようですが、
これは、論語・学而の一節です。

個人的には、陶淵明の雜詩其一
歳月人を待たずを連想してしまいます。

学而第一 1 子曰學而時習之章

子曰。學而時習之。不亦説乎。
有朋自遠方來。不亦樂乎。
人不知而不慍。不亦君子乎。

子曰わく、学びて時に之を習う。
亦た説ばしからずや。
朋有り、遠方より来たる。
亦た楽しからずや。
人知らずして慍おらず、
亦た君子ならずや。

ならってはおさらいするのは、
たのしいことだね。
なかまが遠くからくるのは、
うれしいことだね。
知られなくても平気なのは、
りっぱな人じゃないか。
(魚返善雄『論語新訳』)

まとめと関連情報

 

 

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